体育館倉庫のレオ・シュトラウス


「大学時代、何したっけなあ・・・。」



夜、風呂の中でふと考えてた。
高校時代はなんだかんだで没頭できる事があったし、スポーツで青春したぁ!とは言えないまでも、それなりに充実した日々を送っていた。それに比べてその後の人生はどうだ。予備校時代なんてかなりひどかった。そもそもS+Vの意味すら分からない俺が、大学を受けようとしたこと自体、間違いだった。あの頃の俺は、大学だけは出ておかないとまずいんじゃねーかナと、ある種の強迫観念のようなものに囚われていた。ナンダカンダで日本は学歴社会。実力さえあれば・・・なんてのは戯言に過ぎない。


でも、それは俺の心の中から出た考えじゃなかった。
正直、大学なんてどうでもよかった。
そんなことよりも、もっとやりたいことがあったから。
今にして思えば、若気のいたりだけど、あの頃の俺にはそれが全てだった。



結局、やりたい事を後回しにした俺は、大学への進学を決めた。
しかし、このことが俺を俺でなくした。
空白の4年間。
あっという間に時間は過ぎ去ってしまった。
「光陰矢のごとし」
まさにそんな感じ。
特に、「大学でこれを学びたいんだ!」という強い気持ちで入学したわけでもなく、ただ、ここはある目標のための通過点だと思っていた。
だから、ずっと先の未来を見ていた。
俺は、今という時間を、生きていなかった。



ずっと、俺が俺でない気がしていた。
そう、ネットゲームでよく言う”中の人”は、どこか別の世界へいたんだと思う。
今はそいつをどうにか俺の中に戻そうとしている。
ずっと遠くに押しやっていた俺の中の俺。
一番大切なものを置き去りにして、突っ走ってきた4年間。
この4年間で何か得たものがあるとすれば、一番大切なものを守ることの重要さだろう。
それを知るのに4年という膨大な時間を使ってしまったのはマジで痛い。





さて、本文とは全く関係ないことではあるが、せっかくレオ・シュトラウスの名前を出したのだから、現代日本の民主主義についても触れてみたいと思う・・・のだが、堅苦しい話をしてもホリエモンがしらけるだけなので、やめにしよう。
そんなことより、小栗君がどこに消えたのか。
こっちの方が、現代日本の民主主義を語る上で重要な問題に違いあるまい。