デオキシリボカクサンに生きる

光陰矢のごとしとは昔の人もよく言ったものですが、ほんとに月日が経つのは早いですね。つい先日、夏だー!わーい!とやっていたら、もう秋です。そして、その秋もまた終わりかけです。
気が付けば10月。
本当に、あっという間に時間は過ぎてゆくのですね。



そういえばこんな事を言う人がいたような気がするのです。
「人が生まれながらにして唯一平等に与えられたものは、時間のみである」
この話を初めて聞いた頃、「ああ、そうだな〜」なんて思ったけれど、今は全くそうは思えません。個々人に与えられた時間は同じかもしれないけれど、使える時間は同じじゃないですから。そもそも平等なんてものはこの世にないものですし。にもかかわらず、観念として捉えただけの平等が現実をも支配できるのだと考えたこと、そのこと自体が間違いなのです。だから、時間が平等に与えられているだなんてありえない。



ところでこの使える時間とは、自分の意思で動ける時間のことを指しています。
たとえばそれは、ご飯食べたいな〜と頭の中で思った時、そのままご飯を食べようとする行動に移し、実際に食べるまでの過程の時間のこと。ですが、仕事やバイトしていたりすると、当人がご飯食べたいな〜と思っても、予め決められた休憩時間が来るまでは食べることなんてできません。何故ならバイトの時間は、彼の時間ではなく彼を雇っている人の時間だからです。もし何らかの事情で仕事中の時間に食べてしまったのなら、それは契約違反になるわけです。早弁はやっちゃいけないことなのです。めっ!なのです。



だからこそ、自分の時間をどれだけもてるかが重要なんですが、現実はそううまくはいかないわけで。そして皮肉なことに、時間は平等であると訴えたはずの観念が、むしろ自分の時間を持つことを邪魔しているといった状況になっている。それをどう克服していくかが、今問われていると思うんです。


困っちゃうんだよなあ。 by槇原敬之