そこに何か、”ある!”

”ある”とは何だろう?
英語で言えば"be"、ドイツ語でいえば、"sein"が相当する。日本語は”ある(存在)”だ。普段何気なく使っているこの言葉は、実は相当奥が深かったりする。その奥の深さを味わう前に、まずは”ある”の使い方を見てゆこう。


その使い方はこうだ。
「そこにお尻がある」「後にも先にもあるのは、お尻だけだった」「その村には、軽快な音頭を執る優れたお尻がある」「お尻ならではの愛がある」「だからこそお尻はお尻であり続ける。」


過去形ならば、こうだ。
「そこにはお尻があった」「彼はお尻であった」



うーん、実に奥が深い。



次に”ある”に関する文献を見てみる。
その文献とは、かの有名な尻込政太郎が書いた、九州道中膝尻毛だ。お尻に関して実によく描かれた文献である。



九州の最果てに、お尻に造詣無窮な男あり。
この男、名を法流垂長石といった。
法流は常日頃から、尻の擦過に悩み苦しんでいた。
何故こうまで擦れるのか。
三日三晩擦れについて考えてはみたものの、彼の尻が余りにも茫漠過ぎることにひどく魘され、結局、答えなど出る訳がなかった。
そこで法流は村一番の知恵者である和尚に相談しに行った。
和尚は放流の話を聞くと、一つの知恵を授けた。
「丸く尻を包み込むような物があれば、すべてが丸く収まるだろう。」
法流はこの言葉に感激し、すぐさま作業に取り掛かった。
丸を如何にして丸として表現するのか。
彼のこの作業は、実に20年という月日を要した。
こうして彼が開発したのがオマルである。
オマルが完成すると、法流は長さ30寸はあろうかというオマルに腰をかけ、得心満足といった顔でそのままオマルの中へと沈降していった。
今では村の人達は放流のことを、オマルさんと呼ぶという。



やはり奥が深い・・・。


今日は時間が来てしまったので、この辺でお暇させて頂くことにするが、いずれまた機会があれば”ある”について話そうかと思う。では、サンジェルマンでまた会いましょう。