ニートって何さ

昨日、ニートまっしぐらと書いたので、ちょっとニートについて考えてみようかと。
うーん。
ニートってなんだろう?
答えはなにかな。
なんだろな。



まあ、ぶっちゃけ今の私の状況がニートなんですが。(ぁ
働きもしない、教育も受けていない、さらには職業訓練さえ受けていない。
Not in enployment or education or training.
まさにこの状況に当てはまるわけです。




さてさて、話は大学4年の頃に戻ります。
その頃、私にはなりたい職業があり、それについて自分なりに腕を磨いてきていたわけです。
ところがどっこい、私のなりたい職業は採用枠が極端に少なかった。
つまり、よほどの実力or実績がないと採用は難しいわけです。
しかし、これを知ったのは大学4年の秋頃。
一般的に就職活動は情報戦といわれていますが、まさにその通りだと思った瞬間でした。
時、すでに遅しでしょうか。
実績も何もない私には、目に見えにくい実力で勝負するしか選択肢がなくなっていたわけです。
また、情報戦であればあるほど、実力もそれに見合ったものをつけてゆかなければならなかったのです。ところが、私が磨いたものは別物。この情報渦巻く混戦の前では、全く役に立たないものでした。
つまり、採用されるか否かに、その職業で使う実務的力は、業界にもよると思いますが実はほとんど関係ないんですよね。
自分をどう見せるのか、どう売り込むのかといった力をまずつけるべきだったのです。
その上ではじめて、実務的力を養うべきだったな、と。


それから、業界研究なるものをもう一度はじめました。
ここで知ったのは、私にとってあまりにも驚愕の事実でした。
聞くところによると、倍率はひどい場合には100倍。時には1000倍にもなるとのこと。しかも会社によっては大学名を見ただけで落とす場合もあるらしいのです。
純真無垢に生きてきた(ぁ、悪く言えば世間知らずだった私にとってそれは、とてもとても痛い洗礼となったわけです。
そして、こんなに少ない枠を狙って、しかも運良く入れたとしても正社員でない採用。さらに今後もその傾向が増えてゆくであろう現実。それでも行く価値はあるのか、と、もう一度考え直しました。
自分の中の実現させたい夢と、現実の問題が真っ向からぶつかったのです。
その結果私は、これらの会社に行くべきではないという決断を下しました。
それが夢だった分、普段はパッパラーな私でも悩みましたし、本当にそれでいいのだろうかと何度も振り返りました。
要するに、未練たらたらなわけですね(笑



とにもかくにも、こうしてこれまで夢だったことを諦めた瞬間、自分は何をしたいのか、何をすべきなのかについての問題が浮上しました。
この点に関しては、それまで明確な目標があっただけに無頓着だったんですよね。
しかし、その明確な夢を諦めたら、その心の空いた場所を思い切り突かれることになった。
それは私の中のとてもとても弱い部分。
これはたとえば、それまで会社人間だったおじさんが、ふと隠居生活に入った時の気持ちと似ていると思います。きっと、たぶんそんな感じなはず。
「私はどうやって生きてゆけばいいんだろう。」
人間、何の目標もなくなったとき、それは死を感じる瞬間です。
まあ私の場合、物理的な死は考えませんでしたが、精神は死にかけたわけです。
実際ある友人にも、「からっぽだね」、みたいな事を言われてしまいましたし。




そして、今。
新しい目標に向かって努力中、かな?
痛い痛いしていた私の心も、少しずつですが様相を新たに作りはじめました。
とはいえ、職に就いていないのは、ほんと親には申し訳ないのだけれども。
ただ、今はお金を稼いで楽させてあげることはできないけれど、もう少しだけ待ってて。
必ず楽させてあげるから、とだけ心に。





さて、これは実際にニートをやっている人間が語ってみた、ニートの実像っぽいものです。
とはいえ、関西人にも、関東人にも様々なタイプの人がいるように、ニートもまた多種多様ですので、一概にこれがニートだ!とは言い切れません。
私よりも、もっと深刻な悩みを抱えて迷っている人が世の中には五万といると思います。
そんな中で、何故?という疑問をもって自己を分析し、それについて主張している人が少ない(独断的偏見により)ので、ちょっと語ってみたという次第です。



こうしてみると、ニートという人々は、毎日汗水流して働いている人たちからすれば、実にうらやましい存在になるのかもしれません。
なにせ、人生について悩める時間を与えられた唯一の存在なのですから。
そして、そういった時間こそ、人が人として活きるために最も必要な時間であり、何よりも大切にしなければならない時間なのだと私は思います。
これを現代思想的に解釈するのならば、現代における権力が、そういった自己を考える時間を奪ってしまった時代なのであるとも言えるのですが。
昔は、多かれ少なかれ、そこまで個人の時間を制約されてはいなかったでしょう。
今は無き身分制度で実質最下層であった農民の人たちですら、農民でこそあれ、労働者ではなかったのですから。



とはいえ、積極的にニートになろうとするのは、私はお勧めしません。
あくまでも、人生に迷っている人のための一時的な駆け込み寺であってほしいのです。