ユーフラテス川のほとりで

今日はボクが地図上の海外旅行にいってきたときの話でもしようか。
そうだな、あれはイルクーツクの東の小さな村に泊めてもらった時のことだ。そこの家のおばさんはとても優しい人で、ボクにロシア語のレッスンをしてくれた。
「おはようはグーテンモルゲン。こんにちははコペンハーゲン。はい、続けて。」
たぶん、何かが違っていたんだと思う。だけど、ボクのような見ず知らずの外人を好意で泊めてくれる彼女に、どこか変だよなんて口が裂けても言えなかったんだ。
だからボクは彼女の家を出るときに、そっと玄関のノブにプラカードを下げてきた。そのプラカードにはこう書いておいた。
「ありがとうは、恋のシュビドゥバ。」
これはボクから彼女へのお礼であり、ちょっとした日本語のレッスンのつもりだった。



数年後、また同じ村を駿台予備校8号館の教室で訪ねる機会があった。だけど、ボクを泊めてくれたあのおばさんの家は、そこにはもうなかった。涙が地図帳を濡らした。
地図帳をそっと閉じようとしたボクの右手の指に、暖かい感触が伝わってきた。ボクの涙で滲んだそこには、あのプラカードが”恋のシュビドゥバ”が確かに刻んであった。